ご紹介創建者と年代は未詳だが、「動安居士集」の中の、元宗7年(1266)に李承休が安集使である陣子侯と西楼に上がり詩を作って残したという内容からみると、竹西楼は少なくとも1266年以前に建立されたものとみられる。太宗3年(1403)に副使の金孝孫が旧跡地に再建し、以後今日に至るまで数十回にわたり改修、丹青、増築された。竹西楼は、楼の東に竹林があり、竹林の中に竹蔵寺があったことから命名された。竹西楼の東に竹竹仙女の遊戯所があったことに由来するという説も伝わる。楼閣に掲示した「竹西楼」と「関東第1楼」の扁額は、肅宗41年に副使•李聖肇が書いたもので、楼閣内に掲示した「第一渓亭」の扁額は、顯宗3年(1662)に副使許穆が書いたもの、「海仙遊戯之所」は憲宗3年(1837)に副使である李奎憲が書いたものである。竹西楼は、その下層が17本の柱で構成されているが、そのうちの9本は自然石の上に立て、8本は石礎の上に立てたという建築史蹟特徴をも...
創建者と年代は未詳だが、「動安居士集」の中の、元宗7年(1266)に李承休が安集使である陣子侯と西楼に上がり詩を作って残したという内容からみると、竹西楼は少なくとも1266年以前に建立されたものとみられる。太宗3年(1403)に副使の金孝孫が旧跡地に再建し、以後今日に至るまで数十回にわたり改修、丹青、増築された。竹西楼は、楼の東に竹林があり、竹林の中に竹蔵寺があったことから命名された。竹西楼の東に竹竹仙女の遊戯所があったことに由来するという説も伝わる。楼閣に掲示した「竹西楼」と「関東第1楼」の扁額は、肅宗41年に副使•李聖肇が書いたもので、楼閣内に掲示した「第一渓亭」の扁額は、顯宗3年(1662)に副使許穆が書いたもの、「海仙遊戯之所」は憲宗3年(1837)に副使である李奎憲が書いたものである。竹西楼は、その下層が17本の柱で構成されているが、そのうちの9本は自然石の上に立て、8本は石礎の上に立てたという建築史蹟特徴をもち、その上層には 20本の柱に入母屋屋根が施されている。現在、楼亭内には副使•許穆が作った「竹西楼記」、唐城•洪百鍊が作った「竹西楼重修記」などの奇文と、「竹西楼」、「海仙遊戯之所」などの題額、そして、一中金忠顕が書いた栗谷李珥の「竹西楼次韻」、 正祖の御製詩の詩板など計26の扁額が揭板されている。
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